介護

近頃、高村光太郎の「智恵子抄」にある「梅酒」という詩の、ある一節を良く思い出します。

「ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、これをあがってくださいと
おのれの死後に遺(のこ)していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅(おびや)かされ
もうぢき駄目になると思ふ悲に、
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳(かを)りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。」

専業主婦だった母が認知症になって、代わりに私が家事をやるようになると、「これは発症する前に、買ってきたものだな」とか、「書き置いたメモだな」と手を止めることがよくあります。
丁寧に生活していた形跡を見ると、老いていく寂しさや、家族を思う気持ちを辿っているような気になります。

介護は、介護される本人の意思よりも、家族や介護職の方々の都合が優先にならざるを得ない現状があるので、介護サービスも「続けたい?」と聞くようにしていますが、「楽しいよ」という笑顔に、救われることもたびたび。
しかし先日、知り合いと電話している母が、「私は娘の操り人形やから」というのを聞いて、どきっ!としました。

智恵子さんとは違い、ここに居てくれているのに、”いま、ここにいる、ありのまま“の母を見ていないと反省。
“いま、ここに”ある感情や感覚に向き合うことは、本当に難しいものです。

母が遺していこうとしているものは、「こうやって老いていく」姿そのものだと思って、母の声に耳を傾けていけたらいいな、と思います。

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